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PUKUBOOK Succulent picture book

2023.7.14 目からウロコの「自然環境保護活動」――『多自然ガーデニング』で学ぶ本当に取り組む価値のある保護活動とは?

PUKUBOOKは多肉植物という自然の恩恵そのものを扱っているメディアなので、当然、多肉植物たちが本来生育している「自然環境」にもとても関心を持っていますし、「自然環境保護活動」にもできるだけ意識を持ち参加しようとしています。今日はそんな「自然環境保護活動」の知識をアップデートしてくれる書籍の紹介……というか自分の勉強メモです。

「自然」は幻想?

この本の趣旨を一言で説明すると「自然環境保護活動って『手つかずの自然』に戻すことを至上命題にしているけど、そもそも『手つかずの自然』なんて存在しないし、それが必ずしも良いものとは限らないから、ちょっと冷静になって」といったところです。 ともすれば「自然はすばらしい」とか「外来種は悪だ」とか「絶滅危惧種を守れ」と言いがちで、それはそれで基本的には悪いことじゃないんだけど、行き過ぎると悪いことも起こるし、逆に外来種にも良いところはあるんだから活用したほうがいいよ、と。

「手つかずの自然」を究極目標とするんじゃなくて、今まで「人工的」といって毛嫌いしてきたような環境――たとえばきっちり護岸整備された河川、街の中にある公園、外来種が入ってきた山林、はたまた雑草の生える民家の庭――そういったものもぜんぶごちゃまぜに(rambunctious)、人間がちゃんと計画管理してガーデニング(gardening)のように自然環境を作っていきましょうというのが、本書のタイトル『多自然ガーデニング(Rambunctious Garden)』に込められています。

そもそも「手つかずの自然」なんてない

この本でもっとも痛快だと思ったのが、「手つかずの自然」がないという指摘でした。

ビアロウィエージャの森(wikipedia)

「ヨーロッパ最後の原生林」というキャッチフレーズで有名なビアロウィエージャの森についてその歴史を紐ときます。1万~1万2,000年前に誕生し、2,000年ほど前に構成種が成立。同じ頃に最初の人造物が建てられていて、1~5世紀には鉄器時代の、9~11世紀にはスラブ人の遺跡が見つかっている。14世紀ごろにポーランドが訓練のために大規模な狩りを行うなど、戦争のための資源採取の場となっていた。ロシア支配下の19世紀では肉食獣の数が管理され、クマとオオカミは害獣として根絶やしにした結果、シカなどの草食獣が増えすぎて植生が変化した可能性があり。第一次世界大戦で資源確保のため伐採されバイソンが絶滅(1929年に動物園から戻された)……。どんだけ。

ビアロウィエージャの森に限らず、そもそも人類は1万年以上前から世界中にその生息域を広げていて、人類反映のための資源や排除すべき脅威として大型動物の大量絶滅があったのは周知の話。マンモス、マストドン、サーベルタイガーなどなど。地球上を詳しく調べてみると、無氷結地の75%が「人間による居住や土地利用による変化を経験した」とされ、22%の「人間による利用の形跡がない」エリアでさえ、本当に影響がないかどうかはわからない。だいたい、近年の地球温暖化による気候変動は地球規模であって、ありとあらゆる土地がその影響を免れない。

そんな事実を突きつけられると、果たして「自然を元の状態に回復させましょう」というときの「元の状態」ってなに?となるのは当然のこと。

#日本の話をしておくと、日本の森林はおよそ目につくところはほとんどすべてが「人工林」です。それこそ日本には本当に「自然のままの自然」が存在しません。「里山」がそもそも人工林=人の生活と密着していて生活の糧を得るために手を加えてきた林や山のことですからね。

外来種を活用する
ハイイロオオカミ

さらに印象的だったのが、外来種は悪いものばかりではないという話だけでなく、むしろ積極的に外来種を導入してはどうかという提案でした。それも、かつてよくやっていたような、作物や食料として、あるいはその外敵からの守護者として導入という話ではなく。

例えば、アメリカで絶滅したマンモス(のような大型草食獣)の代わりにゾウを、野生の馬の代わりにロバを、アメリカ系チーターの代わりにアフリカのチーターを北米に導入してはどうかという議論がある(更新世再野生化計画)。元々似たような動物がいたんだから、生態系がかつての姿に戻るのでは?と。直感的に「とんでもない」と思うこの計画は実際にとんでもない批判にさらされたそうですが、冷静に聞くと一理あると。日本でもニホンオオカミが絶滅したことでシカが増えすぎ大変なことになっているから中国のハイイロオオカミを導入しようという議論が上がっていますし(2019年のアンケートでは賛成41%だそうです)。

なるほど、いわゆるテレビやメディアで喧伝されている「美しい自然」や「環境保護」の目的をことごとく破壊してくる感じですね。悪くないですよこの手の話。

自然環境保護活動は何を目標にしたら良いのか?

未来の都市はどうなっているのか? 高度な科学技術で地球上のあらゆる土地を住も心地のいい街にするのか? 土地の多くを自然に明け渡し、極めて限られた都市空間にだけ密集して住むのか? 著者はその中間が理想という

今までの常識が使えないとなると、そもそも自然環境保護をしたいと思ったら、何をしたら良いんでしょうか。本書にはそのガイドライン(と問題点)が列挙されているのでまとめてみます。

人間以外の生物の権利を守ろう

すべての生物には内在的な価値があり、自分自身や人間の利益を損なったとしても、動植物の命や生きるための環境保全を優先すべきといった考え方。消費のペースを緩やかにし、人口を抑制して、地球への負担を軽くしなければならない。ただ、その「価値」は何に帰属するのか?どうやって評価するのか?が難しい。その地域の土壌、水、植物、動物の個々の権利を考えるとそれぞれが相反する権利を主張することがあったり、人は水や土壌といった生命じゃないものの価値を考えるのに慣れていない。

カリスマ的な大型生物を守ろう
僕も定期支援しているWWFではこうした動物の「里親になって」と喧伝されています。中でもトラがいちばん人気なんだそうです

クジラ、トラ、パンダ、シロクマ……といった大型動物(キーストーン種)を保護しようというプロパガンダはわかりやすいし受け入れやすい。実際に数は減っているんだから保護して増やす活動自体に問題はないように思える。けど、例えば南アフリカのアッドエレファントパークではゾウの個体数が増えた結果、その土地が踏み荒らされて植物が生えない不毛の地になっている(僕たちの愛する多肉植物たちが文字通り根絶やしにされているんだって)。それに「保護しろ」というのは国の偉い人や下手すると諸外国の人たちであって、ゾウが畑や民家を荒らすなど、その場で生活している人々の苦労を理解していないことがある。南アフリカでは94年にゾウの殺処分が禁止されたが、2008年に再開すると表明した。

絶滅率を下げよう

大型動物だけじゃなく、とにかく生物種の絶滅を回避しようという考え方。「ハエやイモリも、ジャガーと同様に保護されるべき」と。ごもっとも。ただ、最もわかりやすい問題は、対象が多すぎてすべてを保護することが出来ないということ。お金の問題もあるし、一方を守ると一方がダメージをというトレードオフもある。さらに極端になってくると、野生では絶滅しそうだからと動物園や飼育ケースで「保護」する。それで結局絶滅してしまった場合、その「保護」された種はどうするのか?

遺伝的な多様性を守ろう

生物種全体の、絶滅しそうなヤバい種だけを見ているのが先の「絶滅率」の話だとすると、こちらは本当に生物全体を見ているアプローチ。絶滅を避けるだけでなく、特定の種が極端に増えることもなく、全体的なバランスを維持するという考え方。逆に全体的なバランスが改善するなら多少の絶滅には目をつぶる。ただ、このアプローチで具体的な環境保全活動の事例が乏しく、あるとしても「遺伝的に価値がある」つまり特定の環境で独自に進化した種(EDGE種)の保全活動が主だったものだとか。あるいは、遺伝子を保全すればいいと遺伝子のサンプルを冷凍保存する活動に行き着く可能性もある。

生物多様性を定義し、守ろう

飼育ケースでの保存や遺伝子の冷凍保存に魅力を感じないのは、生態系の最大の魅力である「生物同士のつながりや関係性」をバラバラにしているからで、だったらその「生態系」としての生物多様性を保全していこうという考え方。実際に「生物多様性」は多くの生態学者や自然保護主義者が使っているワード。しかし「生物多様性」を定義して評価するのが難しい。キーストーン種は影響が大きいから保全するが、さしたる変化をもたらさらない冗長種は無視して良いのか。生態系は一部が壊れても別の種がそれを埋めるから全体として影響がないということもある。それにそもそも全体を把握できていない。寄生生物や微生物は、そもそも我々のカラダにも住んでいるが、保全しようという話は聞かない。「生物多様性」を目標にすると話が大きくなりすぎて難易度はもっとも高くなるが、著者は「もっとも現実に近い概念」と評価している。

生態系サービスを最大化しよう

もっと人類にとってわかりやすく「人類に役に立つようにしよう」という考え方。災害を減らし、水や食料が尽きることなく永続的に採取できるように、といった。地球は70億という人類を抱えるには狭すぎ、かつて無限にあると思われていた資源が枯渇しつつある。地球規模的に解決しなければいけない喫緊の問題として国連、世界銀行、非政府組織、大学が連携して報告書をまとめた。一方で、生産性だけを追求すると、川や海岸をすべてコンクリートで固めてしまえとか、平地はすべて小麦を植えろとなって「生物多様性」と矛盾する。生産性に着目すると生物種を「生産性が高い/低い」と評価することができるが、そもそも生物種や生態系に目的なんてない、というのも気になる観点。

精神的、審美的な自然体験を守ろう

自然の景観やにおいや音が好き。松葉のカーペットを踏み歩く。野鳥や樹木の名前を知る。大きな存在を感じ、心身ともにリフレッシュする。そんな人類の情緒的価値を中心にした考え方。「突き詰めると信仰の問題」でもあり、生物多様性は文化の基盤にもなっている。自然の破壊は、信仰や文化の破壊に等しい、と。ただ、実際に「感動する自然の景観」は100%自然の環境じゃないこともある(ナイアガラの滝の水量は発電所のスイッチひとつでコントロールしてるとか、ネブラスカ州では人が河川を整備したから野生のツルの大群生が見れるようになったとか)。その景観の価値をどう考えるのか? 著者はそれこそが「多自然ガーデニング」の成功例だと、人はそうした景観の価値を認めるべきと主張しています。

AIに「美しい自然」を描いてもらった結果。価値観は人それぞれ。

余談

本書とは全然関係なく、たまにというかわりとよく考えることに、そもそも例えばここ日本で、本当に人が全然いなかった縄文時代とかに、森と平野の境目ってどうなっていたんだろうなぁと。よく漫画やアニメでとつぜん道の脇から木が生えていたりするようなアレでもなく、里山の風景としてよく見る田んぼの脇から入っていける林でもなく。そもそも、自然環境では「山地」と「平野」には違いはなくて、山にも平野にも同じように木が生えた森が広がっていて、その切れ目や境目なんてないはず(後から人が入っていて「平野」のところだけ木を切り倒したから「平野」ができたはず)。

そんな本当の原風景を見てみたいなぁと思うところですが、きっと日本中どこを探してもそんな景色はない(人の手が入っていない平野など無い)んでしょうね。存在しない景色だから、みてみたい。本当に幻の風景です。それこそ本当にタイムマシンで縄文時代以前にタイムスリップでもしない限り。というわけで僕は「もしタイムマシンがあったら何がみたい?」という定番の質問には「縄文時代以前の平野の原風景がみたい」と答える変人になってしまっています(もちろん来月の当たり馬券をみた後で、ね)。

そんな「原風景」をAIに描いてもらった結果。林道のない平らな森。なるほどたしかにね。ちょっと広すぎる感はあるけど。ていうかビアロウィエージャの森によく似てますよね。

まとめ

この手の小難しい話は、コラムとしては極めて人気がなく(笑)アクセスはいつも地を這うような結果で「書いてる意味あるのか?」と思いがちなんですが、良いんです、読まれなくても。すべて自分のために書いているんで。いつかきっとこういう記事がちゃんと読んでもらえるように、価値あるコラムを書き続けていきたいなぁと思っています。

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